昭和49年08月17日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」

 おかげの頂きやすい人と頂きにくい人が、まぁありますね。おかげを頂く人はねやはり心掛けが違います。まぁ心掛けが違うというよりも、信心させて頂くようになると、段々その心掛けが出けて来るという方が、本当かも知れませんですね。信心をさせて頂くようになると、段々信心のなかった時代よりも心掛けが変わってくる。なるほどなるほどとこう合点をする。合点をするところに例えば年寄りを大事にせよとこう言われる。なるほど年寄りは大事にせんならんものだなと。
 、素直にそれをあのう年寄りを、改めて大事にされる。そういう素直なまたそういう心掛けの人がおかげを受けます。信心させて頂いて心掛けが変わって来ない。そんな人はおかげを受けられません。心が美しゅうなる豊かになる。いわゆる親切になる。信心をさせて頂く教えを頂いて、そうなって来るというのが値打ちがあるのです。例えば素直と言うても、生まれつき素直といったようなものではなしに、信心させて頂くようになって、素直になるというようなのじゃなからなきゃ本当なこつじゃないです。
 今日はね年寄りを大切にするという事は、こりゃ信心をさせて頂く者の心掛けだということ。そこで私は年寄りをどのように大事にしておるだろうかと、思うて見るといいですね。年寄りをまぁ言うならばいらんものにする、年寄りを尊重しない。そういう心掛けではおかげになりません。本当に年寄りを大切にするというのは、神様ではなくても、人が見とって、人間が見とってもいいもんですね、年寄りを大事にしておるというのは、本当に素晴らしい。勿論心でも形でもでなからなきゃなりませんけれども。
 私は今日御神前で、柳の木のね、そのうコップにこう枝が挿してあると、白根がこうやって降りますね柳の木はすぐ。そういう情景を頂いたんです。これは私は昨日の朝の御祈念の時頂いておりましたけれども、忘れておったんです。そしたら昨日あぁほんに昨日はあのご直会の時でした、こんな事を頂いとったなと思うて、思い出させて頂いたんですけれども。それはどういう事かというと、自分の目的を完成するためには、手段を選ばないという人がありますね。
 それがまぁ大きい事は言うならば、大義名分とでも申しましょうかが出来たら、そのためならばね人を殺してもという様な、間違った考え方をする人があります。例えばなら世界の平和なら平和、真の平和なら真の平和というものの為にはです、平和を乱すようなものは殺してでも、いわば手段を選ばない。そういうことで物事が成就する筈はありませんです。お金儲けでもそうですよね。もう金儲けのためならば手段を選ばないという人があります。自分の意を通すためにです。
 言うならば手段も選ばないという様な事では、そういう心掛けではおかげにならんです。例えば特にならここは商売人の方が多いですから、金儲けのためならばです、人の茶碗でも叩き落してからでもという様な人では、なるほど金儲けは上手そういう風で、その手段を選ばんでやって行きますから、お金は貯まるかも知れません。けれども幸せには絶対なりませんです。言うなら金はうんと出けたけれども、却って困った事になったとか、子供が出来そこのうたとかね。
 私はこの事を頂いて改めてです、本当に日本が言うなら世界を相手に戦争をしなければならないような結果になった。言うならばその為にならば手段を選ばないと。自分のいいかげんな大儀名分の目的をつくって、そしてその戦争をした。これで例えば勝つとか幸せになるはずがないということですそういうことでは。もう例えばね、その目的を完成するためにはそれがどういう、その公儀名分ですかそのう美しい事のようであってもです、人を傷つけたり殺したりして行くようなね生き方。
 いわゆる手段を選ばない、それは本当に例えば人間なら人間が、幸せになる為にという事を、一生懸命願っておると致しましてもです、それがなら殺したり傷つけたりまでしてから行く様なことで、人間が幸せには絶対ならないです。金光様の信心は言うならば、もう敵も味方もないのです。もう皆んな立ち行かなければいけんのです。例えば良く三角関係なんかの問題が起こります。そすとどれかが一人が悪者にならなければならん様な事になって来ますけど、そんなこっじゃないです。
 それはもう成り行き上です、人間ですからどこにどういう不調法な事が出けるやら分かりませんから、そういう関係が出けたに致しましてもです、信心させてお願いをさせて頂くとです、三人三様皆んなが立ち行くようなおかげ頂くです。例えばなら商売人もそうです。本当にですね商売敵だからというて、その商売敵の事が祈れれるようになると、先方もこっちも立ち行くようなおかげになって来るです。私は今日は信心する者は、よう心がけておくがよいと仰るその、今日は心がけを聞いて頂いてるんです。
 心がけね。ただしねあのうお徳を頂くというか、もう徳を頂くためならばね、手段を選ばないとこれは別のようですね。もうお徳を頂くためならばです、ならあらゆる修行もやっぱりして見るならして見るが良い。私共はそうだった。お徳を受けられた例えば人達先生方もです、こげな修行もしなさったげな、あんな修行もしなさったげなと、いうことを聞き伝えると私も人間だから、あの人達が出来なさったことが、出来んことはあるまいと言うて、あらゆる修行も様々にさせて頂いたです。
 ならそういうことをさせて頂いたから、今日のおかげを頂いとるということじゃないです。ただ本当な修行本当な修行を求め求めて、今日の合楽の修行になっとる訳です。もう表行なんかで、いわばおかげを頂くということではない。霊徳などは受けるかもしれませんけれども、本当の御神徳はそれじゃない。だから合楽に御神縁を頂く人達ゃです、もうこういう修行は私もやって来たけれども、これは間違いだったというのは、もうやってはならんというのが今の合楽ですよね。
 これほど信心するのにどうしておかげが受けられんだろうかという時ににゃ、もう信心が止まっておる。これはまぁだ信心が足りんのだと思うて、信心をしていけばそこからおかげが受けられるという、そこからのおかげというのはです、自分の心の上に持って来るんです。なるほどこういう心がけじゃおかげが頂けん筈」だというものを見つけ出して行くということです、今の合楽では。もう自分の心ひとつなんです。いわゆるおかげは和賀心にあるという、その和賀心というのはね。
 心掛けの悪いひとはね、和賀心が生まれて来ないですよ和らぎ賀ぶ心が。そういう例えば心中心の生き方にならせて頂く時に、少しずつでも神様のお心にかなう生き方にならせて頂くところから、それに相応しいおかげというか、和らぎ賀ぶ心も生まれて来るというのが、これが本当の金光教の信心だと今私そう言ってる。またどういう風に変わっていくかそれは分かりませんよ、お互い進んで行っとりますから。もっとすっきりとしたもっと素晴らしい事があるかも分かりません。
 心、心掛け年寄りをお粗末にするような人。何とはなしに年寄りをうるさがる人。ないがしろにするお粗末にする。そういう心がけの人は、先ずおかげが受けられん。おかげは例えばご利益は受けても、お徳は受けられませんですね。だから例えばんなら今まではあんまり大切にしなかっても、ほんに今日から本気で、年寄りを大事にさせてもらおうと。なるほど、今はもうよぼよぼで仕事も出来なさらん何も出来なさらん。そして年寄りがもういらんこつばっかりいうたりしたりすると。
 あんたばっかりはもう年寄りの何ごついいよんの、なんてんいいよったと。けれども今日からはいうまい大切にしようという気になればいいのです。そこに信心の素直さがいるというのです。私は柳のね芽が出るという事を頂いたのはね、柳という事は素直という意味なんです。柳は風に逆らわないもう風が。素直という意味なんです柳は。そういう素直な心がいよいよ根をおろすという事ですよ。信心させて頂きよると、そういう素直な心が段々根を下ろして、大地にでも挿しただけでも根が白根が下りて来る。
 どういう木よりも、いわば芽が出やすかったり根が降ろしやすかったりする訳です。だから信心させて頂いてこの素直心というものがです、おかげを頂く心の一番似つかわしい心なんですよ。だから素直な例えば今日私が年寄りを大切にせよと、それはもう信心する者の心がけぞと頂いたら、本気で年寄りを大切にしようという気にならにゃいけん。もうそういう素直な心が根を下ろして来る。「素直心のひとつにて雲の上まで上る道あり」というお知らせを頂いた事があります。久富さんがあのう頂いた。
 私はちょうど夜の御祈念を終わってから、終わってここを片付けよりましたら、急に神様が筆と髪を用意せよと頂いたんです。それを言われてから長い障子紙を持ってきましたから、そこにあった筆でどういう事だろうかと思うたら、サーッとその書き降ろすように書いて下さったんです。これはもう20年。それが今言う「何事も素直心のひとつにて、雲の上まで上る道あり」という。その話を聞いてから、あのう久留米の富永さんですね、当時久留米におられました。今小倉におられます。
 はぁそういうなんならば、その表装を私にさせて下さいと言うて、持って帰られました。それから久留米の表装屋に行かれました。そしたらそこの表装屋のご主人が、「あなたは富永先生の奥さんですか」と。「はい私は富永ですが」ち。いやぁその私共の娘が先生に大変お世話になっておると言うて、そこの富永先生のまぁ秘書のような御用を、そこの娘さんがしておられたという事だった。そしたらそれが見事に出来上がりました。もうそしてお金なんかもういりませんと言われる。
 例えばねその事もうそういうおかげが繋がって行くです、素直ていう事だけで。そしてそれはどういう事であったでしょうか。それをあの久富さんに差し上げましたから、久富さん方のそれが、家の宝のように今大事にしてあるはずです。素直心で雲の上にまで上る道ということは、素直心ひとつで神様にもなれるという意味なんです。ですから信心によってです、生まれつき素直というのとは意味が違うです。どんな強情な人でも信心をさせて頂くようになって、心がけが変わってくる。
 そして親先生が右というなら、はいと右といえれる様になる。左と仰りゃはいと左に言えれる、行えれる様になるということ。そういう心がけが信心には大事です。もちろん今日の御理解からいうと年寄りを大切にするように、その心がけがおかげを頂いて行くんだ心がけなんだ。同時に今日は次に申しました。自分の例えば願いのため、それがならいかに広義名分に合っておると言うてもです、人を傷つけたり殺したりして、例えば進めていこうといった様な心が。
 そういう心がけは、もう天地金乃神様のお心に一番かなわん心なんです。勝てば官軍負ければ賊軍でね、勝つともうここに相当の理由もあって、例えばそれは人を殺してもです、それは別に罪にもならんような思い方。そういう思い方ではおかげにならんです。金光様の御信心はどこもです、もう皆んな誰でもが立ち行くおかげ。傷つけず殺し合わずに立ち行くおかげの頂ける道なんです。それを小さく申しますとさっきの三角関係がそれです。もう三人三様皆んなが立ち行くようになるです。
 商売敵もそれがそうですね。もうあん奴がと初めは思いよったね。もうあの店が潰れりゃいいがとこう思いよった。所があちらも繁盛しこちらは尚また繁盛という様なおかげの頂けれる道なんです。だからそういう心掛けになって行かなきゃいけない。今日は信心する者の心掛けを三つ申しましたね。どうぞその心掛けを作って行かなければ、これは何をするでもそうです心掛けの悪い人は詰りません。ひとつ心掛けを作って行かにゃいけん。信心させて頂いてお徳を受けて行く者の、いわば心掛けを今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。